『戦いやまず日は暮れず』

緊急事態宣言がようやく解除されましたが、これで一安心、という気持ちにはなかなかなれません。

「戦いやまず日は暮れず」と思う方も多いのではないでしょうか。


これによく似たフレーズに聞き覚えのあるは、「生まれたての“太陽の塔”を知っている!」(?)      

またはかなりの読書好きだと思います。

「戦いすんで日が暮れて」―これは1970年大阪万博の前の年佐藤愛子さんが直木賞を受賞した

小説です。

 

「九十八歳。戦いやまず日は暮れず」は、今年8月に出版された愛子センセイのエッセイ最新刊。“たちまち重版20万部突破”の帯つきです。今回はその内容の一部をご紹介しましょう。

某週刊誌に「老いてからの長い歳月を前向きに過ごすにはどうすればいいか」とコメントを求められた愛子センセイ。

―― 冬枯の身となり果てたこの身に、なにゆえ「前向きに生きるコツ」なんかを語らせようとするのだろう。

おそらく私のことを元気のいいばあさんだと思ってのことなのだろう。私は声が大きい。

これだけ五体ボロ雑巾になろうとしているのに声だけはバカでかい。

それによくしゃべる。つまり「口だけ達者」という厄介なエセ元気者なのである。

それに短気のためすぐに喧嘩腰になる。

喧嘩をすると、なくなりかけていた活気が戻ってくる。

喧嘩好きというのは若さを象徴することのようで、そのため私はボロ雑巾にも

かかわらず誰からも同情されず、しゃべってもたいして価値のないことを

(あいつならいつだって喜んでしゃべると思われていて)しゃべらされるという

腹立たしい目に遭うことが多いのである。

 

(中略)

私が理想とする老後のありようは「前向き」なんぞではない。

小春日和の縁側で猫の蚤を取りながら、コックリコックリ居眠りし、

ふと醒めてはまた猫をつかまえて蚤を取り、またコックリコックリ

……というような日を送りつつ、死ぬ時が来るのを待つともなしに

待っている。この、待つともなしに待っている、という境地が私の

理想である。目がかすみ、耳が遠くなればなったでそれもよし、

何も聞えなければよろずらくでいい。食欲がなければないでいい。

働かなければならぬ仕事があれば別だが、居眠りしているだけ

なら無理に食べなければならないということはないのだ。

 

(中略)

いみじくも良寛禅師はいっている。

「災難に逢(あふ)時節には災難に逢がよく候(さうらふ)。死ぬ時節には、死ぬがよく候」

この境地こそ、私が憧れる老後である。前向き、後向き、どうだっていい。

老いた身体が向いている正面を向いていればいい。

正面にあるのは死の扉だ。扉の向うに何があるかは誰にもわからない。わからなくてもいい。

わからぬままにその扉に向う。扉は開いて私を呑み込み、そして閉じる。音もなく閉じる。

それでおしまい。

あえていうならば、これが私なりの「前向き姿勢」なのである。

 

いかがでしょうか。

この本の最後は、色々な人から「あなたは書くのをやめたら

死にます」と言われた愛子センセイが「ホントに死ぬかどうか

ためしてみるために」筆をおくという断筆宣言で締めくくられています。

本書は活字も大きく、気がついたら眼鏡を忘れて読み終えて

いるかもしれません。

秋の夜長を楽しむおすすめの一冊です。

 

(出典)佐藤 愛子「九十八歳。戦いやまず日は暮れず」 小学館 ¥1,320